金沢・鎌倉の歴史遺産

【ようふくじ】

〔台密系寺院〕

 二階堂にあった鎌倉時代初期創建の台密系寺院。永福寺は文治五年(1189)に源頼朝が奥州中尊寺の二階大堂大長寿院を模して作らせた。建久三年(1192)十一月には弟である義経や藤原泰衡らの怨霊を弔うために落慶供養を行った。鎌倉の四大寺社の一つであり、寺格も高い。建物の壮麗さで知られており、頼家以後の将軍はしばしば花見を行ったそうだ。戦乱の時代では武将の宿営とされた。永福寺跡内経塚出土品として銅製経筒や腰刀などは神奈川県指定文化財に、その他出土荘厳具は鎌倉市指定文化財となっている。


【せとじんじゃ】

〔祭神大山祇命〕

 文治元年(1185年)に源頼朝が伊豆の三島明神を勧請したことが始まりとされる説がありますが、他にも説があり、詳しいことはわかりません。


【こうそくじ】

〔時宗〕

 もともとは真言宗の寺でしたが、1279年(弘安2年)に作阿上人(さくあしょうにん)が開山し、時宗に改めたと伝えられています。本尊は重要文化財の阿弥陀三尊像で、別名、頬焼阿弥陀(ほおやきあみだ)と呼ばれ、盗みの疑いをかけられた法師の身代わりになり頬に焼印が残った、という話が伝えられています。本堂の脇に地蔵堂があり、まつられている地蔵は塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれています。六浦の塩売りが鎌倉に入るときにこの地蔵に塩を供えたところ、帰りに見たら塩がなくなっているので地蔵がなめたのだろうということで、この名が起こったと言われています。

【じゅうにそうじんじゃ】

 祭神は天神七柱・地神五柱の十二柱であり、社名の由来である。鎌倉市史によると享保十四年(1727)に建てられたという説と鎌倉時代中期には前身となる堂があったという説もある。当初の祭神は熊野十二所権現であったが明治初年の神仏分離を機に現在の天神七柱・地神五柱に変化していったという説もある。社殿・神楽殿があり、例祭は九月九日に近い日曜日である。

【あさひなきりどおし】

 鎌倉と六浦・金沢を結ぶ大道です。名前の由来は和田義盛の三男、朝比奈三郎義秀が一夜で完成させた伝説によるものです。『吾妻鏡』によると北条泰時が工事に立ち会ったことが記録されています。しかしなかなか工事は進まなかったようで泰時自身も乗馬で工事に参加しました。その後の切通の管理はすべて地元村民に任されました。切通の登り口には道路や村の安全を願った石塔が建っています。

【はなかけじぞう】

 金沢八景から鎌倉・大船行きのバス停「大道中学校前」の右側の崖に刻まれている鼻が欠けた地蔵菩薩がこの鼻欠け地蔵です。大地震の際、村を守るために大地の揺れを全身に吸い上げたために鼻が欠けたと伝えられています。

【じょうぎょうじ】

〔日蓮宗・本尊曼荼羅〕

 建長6年(1254年)、日蓮上人と富木五郎が船中で議論し六浦着岸後もこの寺で討論を続け、その際住職の普識法印も日蓮に感服し、改宗したとされています。安立寺にもこれと同じ「船中問答の伝説」があります。


【でいぎゅうあん】

〔臨済宗円覚寺派・本尊聖観世音菩薩〕

 新田義貞に攻められ自害した北条高時が円覚寺の南山士雲禅師に観世音菩薩像を託して寺の建立を依頼し、禅師が開山しました。当初は京急金沢八景駅の西側にありましたが、米倉陣屋建設に伴い、現在の場所に移されました。★米倉陣屋とは:

【びわじまじんじゃ】

 治承4年、源頼朝が三島明神を勧請して瀬戸神社を創建した時に、夫人の北条政子が夫にならって、日頃信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、瀬戸神社の海中に島を築いて創建したと伝えられています。祭神は立ち姿なので「立身弁財天」、また、島の形が琵琶に似ているので「琵琶島弁財天」とも呼ばれています。江戸時代にはご神体が立像だったことと、政子の出世にあやかって立身出世の神様として信仰を集めました。

【りゅうげじ】〔真言宗御室派・大日如来〕

 源頼朝が瀬戸神社を建立した後、文覚上人と共に瀬戸神社の別当寺として六浦山中に建てた「浄願寺(じょうがんじ)」が始まりといわれています。その後、戦乱や火災で浄願寺の伽藍が荒廃したため、明応8年(1499)当時の住職融弁(ゆうべん)が、兼務していた光徳寺と合併し、当地に移築、龍華寺となりました。800年以上の歴史を持つお寺だけに、貴重な宝物が所蔵されています。


【やくおうじ】

〔真言宗御室派・本尊薬師如来坐像〕

源範頼の菩提寺として建てられたとされていますが、大寧寺でも同じように伝承されており確たる史料は残っていません。朝晩6時に鐘が鳴り、地元では「やこうじ」と呼ばれています。★薬王寺と太寧寺の関係:この薬王寺は天文5年(1536年)に三療山薬王寺と改号されたものです。起こりは建久年間に創建された薬師寺であり、この建久年間に源範頼が瀬ケ崎に埋葬されたことから薬王寺が菩提寺であるという説があります。しかしこの薬師寺を正治年間に栄西が太寧寺と改号したことから太寧寺が範頼の菩提寺であるという説もあります。≪源頼朝の弟である源範頼がこのお寺の近くの瀬ケ崎(今の関東学院大学のあたり)に埋葬されたため彼の別荘であったとされています。もとは「薬師寺(やくしじ)」という名前でした。